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本:小説

スクラップのつもりです。どう、コピーしていいかわからないので、手打ちで行きます。   せしみ。。。
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日本経済新聞 2005年2月7日付 夕刊  
11面  「プロムナード」
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  小説の書き方を教える___________盛田 隆二

毎週金曜、高田馬場の日本ジャーナリスト専門学校(通称ジャナ専)に出講して小説の書き方を教えている。「場面転換」「直接話法と間接話法」「直喩と隠喩」など、技術面にしぼったテーマを毎週設定して、九十分授業のうち、五十分を講義にあて、残りの四十分はテーマごとの課題に従って生徒が実作する。
 ぼくはそれを自宅に持ち帰って読む。二クラスで七十人の生徒がいるので、読むだけでも結構骨だ。
 翌週、何人かの生徒の作品を素材にして、どこが良くてどこが良くないのか、具体的に講評する。全員の原稿を添削する余裕はないが、簡単なコメントを添えて返却する。
 こんな講義を九年間ずっと続けている。一九九六年に勤務先のぴあを退社し、それまでの二足のわらじ生活から物書き専業になったが、小説を書くだけでは家族を養えず、早稲田大学の文学部やジャナ専で非常勤講師を始めたのだが、この仕事を引き受けたのは、経済的な理由からだけではなかった。
 ひとつは、会社勤務を続けながら手探りで書いてきた自分なりの小説の方法論を、生徒に教えることによって体系的に整理すること。
 もうひとつは十八年間サラリーマンだった自分が書斎にこもることにいささかの不安と抵抗があり、作家志望の若者が集まる場所に(大仰な言い方をすれば、書かずにはいられない青年期の衝動の現場の近くに)身を置きたいと思ったからだ。
 書くことと読むことを中心とした単調な生活を続けていると、自分の書く小説が知らず知らずのうちに浮世離れしたものになってしまうのではないか。会社勤めをやめた当初、そんな危機感があり、週一回の講師稼業はその歯止めになるように思われたのだった。
 あれから九年を経て、ひとつ目の目的は大方達成したので、この仕事を続けていく理由の半分は失われたが、ふたつ目の目的については、毎年、新入生が入ってくるたびに更新されるので、何年たっても新鮮だ。
 作家になりたい。作家になれなくても、文章を書く仕事につきたい。そんな思いを抱いて入学してくる学生たちの顔を見ると、家族の寝静まった深夜に睡眠時間を削って書くのではなく、平日の昼間に堂々と書きたいという思いに抗えず、収入の展望もないまま会社を辞めた、九年前の自分を思い出すのである。
 この九年間で早稲田大学とジャナ専、あわせて約千人の生徒を受け持ったことになるが、講師を続けていて心躍るのは、きらめくような才能の持ち主を、教室の片隅に発見したときだ。早稲田もジャナ専も、毎年一人か二人、そんな生徒がいる。
『夜明けの音が聞こえる』ですばる文学賞を受賞した大泉芽衣子さんもその一人だ。早稲田大学に在学中から彼女はすでに傑出した才能を見せていたが、自分の切実なモチーフをどうしたら作品に結晶させることができるのか、そのヒントをつかもうと、講義終了後にもたびたび質問をぶつけてきた。穏やかでいて、強い眼差しが印象に残っている。
 もっとも、そんな才能に出会えるのはごく稀で、一人一人は個性豊かな若者なのに、いざ書かせてみると驚くほど均質な文章が並ぶ。そしてそれらは、ひとつのふしぎな特徴を持っている。さて、その内実については次週この欄で。
                                 
 (作家)

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日本経済新聞 2005年2月14日付 夕刊  
11面  「プロムナード」
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一・五人称の文章を書く若者たち_______________盛田 隆二

 先週に続いて日本ジャーナリスト専門学校(通称ジャナ専)で開いている「小説の書き方講座」の話を。
 講座は一年間に三十五回。エッセイと小説の違い/起承転結って何/プロットの組み立て、といった講義の後、創作演習に入るが、前期の講座は「一人称と三人称の書き分け」にそのほとんどを費やす。
 というのも、モチーフやテーマも小説にはもちろん重要だが、一人称か三人称か(あるいは二人称か)を決めなければ書き始められないし、小説と日記の一番の違いは「人称を選べる自由」の有無にあり、それが小説の魅力であり武器であることを生徒に理解してもらいたいからだ。
 まず、高田馬場駅からジャナ専までの通学路の風景を一人称で書く。巧い下手はともかく、これは誰でも普通に書ける。「私」の目に入ってくる風景や、この街に対する「私」の印象をそのまま書けばいい。
 次週はそれを三人称で書き直す。通学路を歩いている「私」の姿を、客観的・俯瞰的な視点で描写することで、一人称では書けない世界を新たに付加してほしいという条件つきで。これは難しい。人称の違いを最大限に利用して、見事に二つの作品を書き分ける生徒も数人いるが、ほとんどの生徒が「ぼく/私」を、そのまま「彼/彼女」に置き換えただけの作品を提出する。
 次はこの応用編。両親の出会いのシーンを三人称で書く。説明抜きで書かせると、半数の生徒が父か母かのどちらかの視点で書き、残りの半数が仲人のあいさつ風に結婚のなれそめを書く。父と母の両方の視点から多元的に書く生徒も稀にいる。
 翌週、生徒の作品を何名分か選んで、三人称には一元描写/多元描写/神の視点の三通りがあることを説明し、前回、一元描写で書いた生徒は神の視点で、神の視点で書いた生徒は一元描写で書き直してもらう。
 同じようなことを何度もやらされるので、生徒はうんざりするだろうが、両親の出会いを再現する「語り手」と「登場人物」の距離が、人称の違いによって、あるいは視点の置き方の違いによって、縮まったり、遠ざかったり、自在に変化することを、ほとんどの生徒が理解する。
 さて、ここからが問題。次に「今だから言える私の秘密」をテーマに小説を書かせると、通学路の風景を一人称で描写したときとは打って変わり、不自然な一人称が続出するのだ。具体例を示さずに説明するのは難しいが、一・五人称とでも呼べばいいのか、「私」を客観的に見ているもう一人の「私」の視点で書いたような離人症的な文章が並ぶ。
 自分の実体験に根ざした小説を書こうとしても、三人称の客観的な視点を持ち得ず、かといって日記のようにあけすけに書く露悪的な勇気もなく、自分の秘密を他人事のように白々を綴る。たとえば、他人に読まれることを前提にHPに日記をアップしている人は、書いている「私」と登場人物の「私」の分裂を楽しんでいるが、生徒たちの文章にそんな余裕はない。彼らは些細な人間関係で傷つくことを恐れ、生身の人間として向き合うことを避ける傾向がある。それが「むき出しの一人称」を嫌い、逃げ場を残しておける一・五人称の文章に表れているように思えてならないのだ。いや、これが新しい文体であるなら、ぼくは僥倖に立ち会っていることになるのだが。
 
  (作家)
                                                 

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コメント

これ手打ちしたんですか?すごい。
エッセイはともかく、小説の書き方を教える教室というのには懐疑的でした。でも、これを読んだらなんだか教室に通ってみたくなった。会社の先輩が、いま宣伝会議の編集講座に通っているようですが、すごく楽しそうです。同じ趣味のひととも知り合えそうですね。

さて、小説を書こうと思って、いくつか小説を書くための本を読みましたが、以下の3冊は参考になりました。

1)「一億三千万人のための小説教室」高橋源一郎
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004307864/qid=1108393534/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-6026898-2773914

2)「書きあぐねている人のための小説入門」保坂和志
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794212542/qid=1108393622/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-6026898-2773914

3)「小説家になる!」「小説家になる!2」中条省平
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839810184/qid=1108393990/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6026898-2773914

保坂さんは、鎌倉を舞台に息子とふたりぐらしをする主人公を描いた「季節の記憶」「もうひとつの季節」という小説があって、ちょうど「輝きのアリカ」を書いてるときに読んだのですが、しまった!と思いました。考えていたモチーフがそのまんまです。何も起こらない小説。でも、なんとなく雰囲気が好きです。

中条さんは、ゼミ的です。ポスト構造主義とか出てくる。

++との

投稿 との | 2005/02/15 00:18

私は小説を書こうとは、今思ってないのですが、踊りと音楽で物語を表現する、バレエの舞台衣装を作っていると、国文気質、といいますが、やはり文字にしたくなるわけです。
たとえば、「白鳥の湖」には、オデット姫と王子がメインのキャストで、この人たちの心情描写や解釈は、よく取りざたされています。でも脇役、端役、エキストラ、など、特に性格の設定がない役は、うまく踊ろうという意識は働きますが、表現する事までは、要求されていないと、意識されていないようです。
いつか、ですが、脇役の視点の白鳥の湖、端役の視点の白鳥の湖、のように、それぞれの脚本を書いてみたいと思っています。

立体的な物語、といいましょうか。球体のイメージです。心棒を取った地球儀を見るときの感じ、といいましょうか。普通の物語を平面的な地図とするならば、見慣れた、太平洋の左に赤い日本がある世界地図が、それですが、そうではなく、南極を真ん中にして見たり、上にして見たり、そんなことが出来る地球儀みたいな、マルチスクリーンみたいな物語。
それに即した、それぞれの衣裳をデザインして作る・・・・。

この記事は、私のそんな夢に、反応したんだと思います。

投稿 せしみ | 2005/02/15 08:37

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